2026/11/04

(NO.1884) オデュッセイア   デコッパチ

夏に公開された映画『オデュッセイア』は、古代ギリシャのホメロスの長編叙事詩を、クリストファー・ノーラン監督が実写映画化した歴史劇。主人公のイタケ王オデュッセウスをマット・デイモンが演じた。製作費は、小さくない経済効果を映画業界にもたらした可能性があるし、私自身も実写映画の世界へ再度回帰した。 

原作であるホメロスの叙事詩『オデュッセイア』は、トロイア戦争の終結を描いた『イリアス』の続編(後日譚)であり、オデュッセウスが10年間に及ぶ漂流を経て故郷へ帰還するはなし。原作では、海神ポセイドンの怒りや一つ目の巨人キュクロプス、魔女キルケなど、神々や怪物たちの直接的な介入があった。帰途の終盤では、部下を全員失い、1人で漂着したオデュッセウスを、美しい女神カリュプソが愛し、不死と不老を与える条件で自分の夫にしようと約7年引き留め続ける。

映画をみて、ポセイドンの怒りを買わなければ、荒れ狂った海で船を無くす、結局部下全員を失うという、あんなに酷い目に遭わずに済んだのに、と思いつつも、原作に手を伸ばした。映画では、荒れまくる、怒涛の海がでてくるが、ポセイドン自体はでてこない。

ノーラン監督の映画版は、これらの神話的要素を「過酷な戦争体験が生んだ心理的トラウマの投影」として現代的に再構築。「唯一の生存者である彼の語りはどこまで真実なのか」という「語り手」の構造を取り入れた。劇中の怪物との死闘が神話的実在なのか、それとも戦地で多くの部下を死なせた罪悪感が見せる精神的フラッシュバックなのかという多層的な余白を残し、泥臭く苦悩もする。

物語の折り返し地点であり、映画を単なる冒険エンターテインメントではなく、深遠なドラマへと昇華させた鍵が、原作の中盤に基づく「冥界(ネキア)」の場面である。ここは、原作でも怖いが、映画では、映像ゆえにとくに怖い。

羊の生贄の血を捧げて立ち込める暗闇から死者の影がでてくる。オデュッセウスはかつての戦友たちと再会する。予告編では、殆ど流されなかったが、実に重要な場面である。

『イリアス』で華々しい英雄として散ったアキレス(アキレウス)は、死後の栄誉をすべて打ち捨て「死者の王になるくらいなら、地上で貧しい農夫の召使いとして生きていたい」と正への執着を吐露する。また、暗殺された全軍総大将アガメムノンは、裏切りの末路を怨念とともに語り、「人を簡単に信用するな」と警告をオデュッセイアに授ける。

オデュッセウスは、自らの智謀(木馬の策)によって犠牲となった兵士たちの影と直面する。とくに、木馬の策で犠牲になった若い兵士シノーン(オデュッセイアは、シノーンの父親に「無事に連れ帰る」と約束していた)などが重要な存在となる。冥界のシーンは、帰途のための単なる情報収集ではなく、彼が命を奪った人々や死なせてしまった仲間から戦役責任を追及される「精神的裁判」の場でもある。彼は「勝利の英雄」から「罪を受け入れて家族の元へ帰る一人の夫・父親」へと内的覚醒を迫られる。

幾重も、数々の出来事、通過点が、神々や冥界の人がからみながら、起きる。古典というものは素晴らしいと改めて思う。古代の叙事詩を映画に持ちこみ、映画を活性化させた試みに、私は小さくも確かな雷に打たれている。小確雷。

 

https://youtu.be/0kMXZmA5K00

2026年11月3日 デコッパチ