実に懐かしい響きであると感じるのは私だけであろうか?
先日、久しぶりに銀座中央通りを1丁目から8丁目までゆっくりと散歩した。
途中、中央通りの両側にそびえる各店舗を一軒一軒確認しながら歩いたが、店舗の中に入ることは無かったので、その所要時間は概ね一時間くらいだったであろう。
実は、私は若いころ銀座で数年間働いたことがある。
当時は、日本がバブル突入前夜で、大卒であっても正社員となって定職につくことが馬鹿々々しいと言われていた時代。仮に長時間労働をすることがあっても、それは個人の自由であったし、職場が割に合わないと思えばすぐにバイト先を替えられた。
そして定職に着こうと本人が決断さえすれば、すぐにでも正社員として登用してもらえた。この時はまさに、つい数年までの人手不足とは異なる、本当の意味での人手不足の時代であったし、場合によっては自由に生きられるフリーター(アルバイト)であることが新卒正社員よりも、(もちろん人にはよるが)価値があるとも思われる時代であった。
この80年代後半に、私は銀座8丁目にあったステーキハウスで、およそ3年間ウエーターとして働いた。近くの中央通り沿いに天ぷらの老舗である天圀があり、カフェパウリスタ、和田門があったと記憶している。この和田門とは、当時店でオーダーストップ直前に炊いたライスが足りなくなると、ジャーを抱えて炊いたライスを借りに行ったり、また逆に先方にライスが足らなくなった時に、ライスを貸したりする関係であった。
このステーキハウスのちょうど裏手には、今思えば彼の有名なカフェランブルがあったようだ。“ようだ”と書いたのは、実は私はこの当時ランブルがあったかどうかほとんど覚えておらず、珈琲業界にいる友人からつい10年ほど前に、有名なカフェだと教えてもらって当時近くにこんな名店があったのかと驚いた次第である。
銀座をゆっくり歩いたのは、本当に何年振りだろうか。
中央通りだけでなく、裏通りにあった店も30年以上経過した今では、すっかり変わってしまっていたが、やはり銀座は今でも独特の雰囲気がある。
店によく食事に来てくれたクラブのママ。昔からこの界隈にある銭湯(金春湯だったか?)を経営する店主。毎日のようにランチに来てくれた近くの旅行代理店に勤めるOL、などなど、昔の記憶がたくさん蘇ってきた。
しかし、この“銀ブラ”をしたのが仮に今から2年程前だったらどうだったであろう?
このコラムを読まれる方には、外国の方もおられると思うので、少し誤解があってはいけないかもしれないが、その当時であれば多分銀座はいたるところで外国から来訪された方が通り沿い、店舗内いたるところに大勢おられ、聞こえてくる言葉も日本語よりも外国語の方が多かったかもしれない。
多分、その環境では30年前のノスタルジーにふけることはできなかったであろう。
今の(昔のほぼ日本語ONLYに戻った)銀座の姿が良いかどうかは個人の判断に任せるとして、今回の忌まわしいCovid-19騒動の傍ら、偶然にもほんの少しの清涼感、すがすがしさを、この昔懐かしい“銀座”で感じることができたのは、まさに今だけの貴重な体験であったと思う。
2021年3月11日 涼村 行