駅ビルの本屋に行くと、迷いに迷って、いちばんへんてこりんな本を買ってしまうことが多い。本の種類の多さに興奮してしまうのだ。本屋さん側も、そんな本があるんですか、というものまで置いている。どうも、わたしは選択に弱い。選択肢の多さに弱い。
二回に一回は、どうしてこんな本を買ってしまったのか、と思う。しかし、ビル・ゲイツ氏か、だれだかが言っていたが、お金を稼ぐよりも、買い物の方が難しいという発言が、あったような気がする。いちど、そういう身になってみたいものである。
たしかに、企業がある会社を買収する場合、買収する側は、ある程度儲かっている企業であろうし、経営陣も強気なときが多い。ただ、歴史的には、買収効果がなかった例も時々あったし、ある日本企業が外国の企業を買収した後、おもうように収益に貢献しなかった例もたまにある。やはり、買い物をするときは、なにか冷静を欠く物質が、脳内で分泌されるのであろう。決断するまで、迷うということはすごくエネルギーがいるのである。決断をくだすまで、脳内でなにかが作用しないと経済は流れないようである。経済は決断の結果の集合体と言えよう。
一方で、わたしは買い物がへたである。とくに本でそうなのだ。つぎに下手なのが靴の買い物である。映画では、けっこう鼻が効くのに、靴だと、全く冷静な決断ができなくなる。お店では気づかなかった違和感が、あとで必ず出てくるのだ。
しかし、スポーツの場面でも、お仕事でも、靴ほど大切なものはない、のではないか。仕事では、靴がある程度その人を語っていると思う。困ったものである。万が一、わたしが経営者だったら、取引相手のかたの靴がセンスがない、あるいは、汚れている、くたびれている場合には、取引き相手として、すこし考えてしまうかもしれない。
スポーツでは、シューズは、自分に大きく関係してくる。山登りでは、靴は、地面の感触がわかる唯一のツールである。合わない靴だと、その日1日が、ひたすらの苦痛の日となる。スカッシュというスポーツでも、むかし、コーチから、靴はラケットよりも重要ですと言われた。なぜか記憶に強く残っている。今日でも、まわりで、誰がなにを履いているか無意識のうちに気になるし、誰かがシューズをかえると、必ず周りの誰かがコメントを突っ込んでくる。
ちなみに、スカッシュの場合は、市場が非常に小さいため、バレーボール用、あるいはハンドボール用や、バトミントン用のシューズ屋さんに買いに行くことになる。マイナーなスポーツの宿命である。なんだか、欧州の小国の国民になったような感覚だ。そのような国では、専門分野を極めようとするときの書物は、自国語でない英語などの書物にたよらないといけないそうである。ただ、スカッシュをやっていて、まあまあ幸せなのだから、必ずしもGDPの大きな国でなければ幸せになれない、ということではないと思う。
カフェなどにおいては、オーダーはまったく悩まないが、お店の選択にはすごく迷うときがある。となりの駅はとくにそうだ。民度が高いのだ。うう、うらやましい。カフェ、古本屋、中古レコード屋さんの数が多い町、選択肢がおおい地域には、たしかに、どことなく奥行きがある。
カフェの主人は、その町の顔、司祭なのだと、今年もつくづく思う。一方で、一度でよいから、古本屋さんの主人になってみたい。「いらっしゃい」も言わなくてよいし、愛想もいらないようである。売れても売れなくても、どちらでも構わないというような雰囲気。世の中をついでに生きているような、落語の「火焔太鼓」の主人みたいな人間に、わたしはなりたい。
2020年2月26日 デコッパチ