2019/12/25

(NO.1197) ターミネーター  デコッパチ

「われわれはランプの魔神ジーニーを解き放ってしまいました。もはや後戻りはできません。AIの開発は進めてゆく必要がありますが、危険とまさに隣り合わせであることを心にとめておかなくてはなりません。わたしは、AIが完全に人間の代わりになるのではないかと恐れています。」(スティーブン・ホーキング)

 

最近、映画「ターミネーター:ニューフェイト」が、上映されている。原題はTerminator: Dark Fate。fateは運命、宿命。たしかに、邦題の方が、お客さんが来るような気がする。

 

しかし、わたしは、このシリーズに、数十年、翻弄されっぱなしなのである。映画というのは、良夢・悪夢みたいなものだ。

 

1984年に公開された第1作はまさに衝撃的であった。低予算チックであったが、始まりから終わりまで、息をする暇もなく、ターミネーター(シュワルツネッガー)に追いかけられた。恋の物語でもある。監督はジェームズ・キャメロン。まさしく彼の出世作である。ターミネーターであるシュワルツネッガーも当時は若く、精悍である。SFに、ターミネーター分野という、確固たる1分野を開拓したようなものである。

 

第1作のあらすじは、ご存知の通り、機械・コンピュータ・人口知能に支配された2029年の未来から、サラ・コナー(女優:リンダ・ハミルトン。未来の抵抗軍指導者の母)の暗殺を命じられたサイボーグが1984年のロサンゼルスにやってくる。  一方、サラ・コナーを守るために、生身の人間も、未来から送られる。サラ・コナーを守ろうと、抵抗しつつ、逃げて、逃げる、逃げる。ディスコや、警察署における銃撃戦は、「映画というものは、予算が限定されても素晴らしいものが作られる場合がある」ことを見事に示している。起承転結が鮮やかである。サラ・コナーの成長物語でもある。あまりにアメリカ的である。しかも、このころから、現実社会でも、日米で、女性の社会への参与の仕方が変化してきたと思う。

 

第1作で、映される未来の2029年は暗い。暗すぎて目眩がする。機械に追い回されたあと、兵士たちは、地下壕に帰る。地下で生まれ、地下で育った世代のようだ。画面が割れたテレビのなかで燃えている火を呆然と見続ける女性もいる。そこに、ターミネーターが侵入してくる場面は、突き抜けるほどダークなディストピアである。

 

その後、ターミネーター2、3、4などが作られ、サラ・コナーの息子は幾多の試練をくぐり、成人した。そのはずであった。

 

しかし、今、公開されている、ターミネーター:ニューフェイトは、ターミネーター2の続編という設定みたいだ。サラ・コナーの息子は、冒頭のシーンで、あっけなく殺されてしまう。ターミネーター3からの展開とは、違う、もうひとつの枝分かれしたストーリーが始まる。

 

私たちは、もうひとつのターミネーター物語をかかえることとなる。人間なので書き換えると言う事は、簡単にできないが、複雑なもう一つの展開を抱えながら生きていくということになる。

 

今回は、三人の女性+旧型ターミネーターの4人が、新型ターミネーター(機械、見かけは男性)と戦う構図である。女性による女性の復権を確認するようなメッセージにあふれている。人間の男性はぜんぜん役に立たないのよ、と見終わったあとに、じわじわと語りかけてくる。人間の男性は、舞台の主役にひとりも出てこないのだ。もし、カップルでこの映画をみたら、観た後は、彼女の方が、少しばかり志しやモチベーションが高まっているであろう。

 

いきなり、バズーガ砲を持って登場するサラ・コナー。全米で指名手配されながらも、結局、人類を救うサラ・コナー。あなたをそれほどマッチョにしたものは何なのだ。それは第1作である。ユーチューブなどで、当時のテンポのよい、近年のSF映画を凌ぐほどの鮮烈な、やや80年代チックな予告編がみられるはずである。

 

しかし、キャメロン監督による今年の新作品は、すばらしい行動だったと思う。シュワルツェネッガー、サラ・コナー、機械に支配された未来の人類のささやかな希望、などが、それぞれの妥協点をみつけた状態にリセットされた。わたしも、やや良質でない悪夢が、良質な悪夢に書き換えられた。

 

また、新しい宿命をバトンタッチされたヒロインがメキシコ人であること、メキシコから物語の流れが始まることも、さりげなく、スパイシーな設定である。メキシコからテキサスにたどり着くまでの過程、国境の実情について、映像体験ながら、多くを考えさせられる。今日、国境で起きている事態。今日も動いている無人偵察機。

 

結局、今回のターミネーター:ニューフェイトによって、ターミネーター1のエンドシーンに戻ったようなものだ。舞台は1984年ではなく、最近のアメリカ、メキシコである。1984年が牧歌的に思われるほど、いまは、タフな時代のようである。ネット、監視カメラ、携帯の位置情報で、かんたんに把握されてしまう。

 

こちらは30年近く振り回されたあげく、キャメロン監督のストーリーに帰着、回帰させられた。まぁいいか。しょうがない。ままならないことだらけなのである。頑張れ、メキシコ娘よ。

 

とりあえず、目の前にコーヒーを持ってきて、飲んで、飲み干し、ダークをブライトにするしかない。「SFは異なる文化体系と、未来の社会を考えることにつながる」(萩尾望都)。

 

2019年12月25日    デコッパチ