「高橋尚子の隣に座っている小出監督は、血色のいい、エネルギッシュな、そしていくぶん芝居がかったところのある、カラフルな人物である。」「この人の中では、理屈と直感が入り交じり、哲学とノウハウが直結している。」(「シドニー!ワラビー熱血編」(村上春樹著)より)
シドニーオリンピックのマラソン競技で走った高橋尚子の映像を、みなおしてみた。
高橋選手には、とびはねるようなフォームのイメージがあるが、シドニーオリンピックの走りを改めてじっくりみると、バランスがすごく素敵だと思う。マラソンについて、門外漢なため、うまくは言えませんが、当時のオリンピック史上、最もタフで過酷なコースにおいて、坂道で加速して、しかけたり、ゆさぶったり、レース後半をリードした走りは、身体全体の絶妙なバランスが、理由のひとつだったと思う。登りの坂道なのに、坂道に見えない、高橋尚子の走りは圧巻である。
しかし、個人的には、そのとき、ひたひたと、高橋のあとを走り、2位になったリディア・シモンの走りに対して、非常なる興味を抱いてしまう。深い感銘を覚える。なにごとも2位以下になりがちなわたしは、2位という言葉に、深い親近感を感じる。シモンのランニングフォームは、強い筋力で地面を蹴るもの。すこしネコ背気味の頭で突き進んでいく。坂道になると、坂道なのねぇ、仕方ないわ、という感じでギアチェンジしてくる。苦しいときは苦しそうな雰囲気がすこしみえる。高橋が風に乗って疾走していく一方で、シモンは筋肉の彫刻が走っているようである。レース最後2キロほどの追い上げは凄まじい。
女子個人陸上長距離というものに、コーチ、監督、旦那などの存在を強く感じるのは私だけであろうか。団体競技の女子バレーでさえも、ある日本代表監督は、コミュニケーションが非常に大事であったことに触れている。女子マラソンの選手たちは、狼が荒野で孤狼のように走る姿と、対極的なのであろう。走っている時や、練習で強くなる時は、常に、監督やコーチの魂の一部を抱えながら、走っているとしか思えない。二つの惑星が互いの周りを回るように。コーヒーとホットケーキのように、コーヒーとモンブランのように。
有森裕子選手や、高橋選手が、小出監督と距離をおき始めたあとは、なんだか、走りとの距離がぎくしゃくしてみえたのは気のせいだろうか。うーん、なにが結論だかわからなくなってしまったが、女子マラソン・ランナーが走る原動力は、男子マラソンとは、まったくことなる惑星に存在していることは間違いないようである。
タイガーウッズが40代でカムバックしたゴルフという競技においては、経験値やゴルフクラブが、選手を、大きく助けてくれる一方で、マラソンは、まさに、カラダ、骨と肉のみが資本である競技だ。監督、コーチの要素は、それを動かすのに欠かせないエンジン、ガソリン、風よけ、であろう。マラソン、プロレスは、AIがいくら発達しても、すたれず、人気を保ち続けるのであろう。
2019年6月4日 デコッパチ