「そこで、必要なのはマネージャーだ。 大事なのはマネージャーだ。わたしには50年の経験がある。」(映画「ロッキー」より)
この映画にはコーヒーはほとんど出てこない。かわりに、冬の夜明け前に、たまごを5個ほど割って飲み干し、走り出す30才の男が出てくる。とりあえず真似はしないようにしている。
イタリア系アメリカ人の、ハリウッド人による、世界人のための作品である。
感謝祭から年末までの米国の雰囲気も、これでやっとわかった。また、ボクシングに対する日米の描き方の違いが鮮明である。あしたのジョーは、パンチドランカーの道を歩み、最後は白い灰になってしまった。一方、ロッキーは、恋により覚醒し、ミッキーに鍛えられ、鉄の如く15ラウンドを耐え抜く。なんと、数十年後には、再度世界チャンプと戦う。
特に冒頭のシーンが秀逸であり、その後延々と続く続編群とは一線を画す。キリストの壁画が暗い照明のなか、次第にくっきりと現れ、カメラはだんだんと降りていき、場末のボクシング試合が映し出される。ロッキーは試合にはかろうじて勝つが、傷だらけである。いま、ちょっとした怪我で駅前の整形外科病院の待合室で、私は、この文章を書いているが、ロッキーの痛みが少しではあるが、ひしひしと感じる。
ちょっと落ち込んだときは、ロッキーのテーマを聴く。何度聴いても、勇壮な曲である。これを聴きながらジョギングすると、私でも1時間半以上走り、最後は街の中心で階段ダッシュができよう。片腕で腕立て伏せもできよう。
1976年に、ロッキー1は、彗星の如く米国映画界に現れ、やや停滞気味であった米国映画界に新風を吹き込んだ。ロッキーは、同年のアカデミー賞・作品賞もとっており、ただのボクシング映画ではないのだ。カメラマンをふくむ多くの映画人からの支持を得たのだ。
ちなみに、同年の作品賞ノミネート群は、大統領の陰謀(原書題名・「大統領の陰謀 ニクソンを追いつめた300日」)、ネットワーク(I'm as mad as hell, and I'm not going to take this anymore!のセリフが流行ったという)とタクシードライバー(何もいえません)など、ただならぬ雰囲気の作品がならぶ。1976年は、ビートルズのホワイトアルバムが出た8年後。クイーンが二度目の来日を果たした。日本のプロ野球では藤田学(南海)、田尾安志(中日)が新人王を獲得。スティーブン・キング原作のキャリーが映画化された。
前年1975年のアカデミー賞・作品賞は、「カッコーの巣の上で」であり、そのころの混迷気味な米国社会の雰囲気がびしびしと伝わってくる。数字でも、1974、75年に米国経済は景気後退に陥り、失業率は9%を超えていた。ロッキー1の背景であるフィラデルフィアの雰囲気も暗い。
ロッキーに対して、長年、ただの筋肉映画だと思っていたが、改めてみなおしてみると、きめ細やかな、言葉の映画なのである。シェイクスピアの真夏の夜の夢、ならぬ、シルベスター・スタローンによる、真冬のフィラデルフィアの軌跡。
自閉症気味のエイドリアンを朴訥にはげますロッキー。徐々に心を開いていくエイドリアン。帰り道に、自分はゴロツキ気味な身分ながらも、12才の少女を不良グループから離し、家までとうとうと諭しながら送るロッキー。同じイタリア系アメリカ人のミニマフィアに雇われながらも、お金の取り立てのときに、ボスの命令通りに、相手に怪我を負わせることができないロッキー。
ボクシングジムのトレーナーであるミッキーは、才能がありながらもボクシングに身が入らないロッキーから、ロッカーを取り上げる。しかし、数日後、突然に世界チャンピオンのアポロから、ロッキーが対戦相手の指名を受けてしまう。トレーナーを申し出に、ロッキーの家を夜遅くに訪ねるが、当然猛烈な諍いになる。言葉、ことば、コトバ。
諦めて、帰るミッキーを、ロッキーが思い直し、追いかける。外で追いつき仲直りするが、そのシーンは、遠くからの撮影で、声は聞こえない。夜陰に小さく映る二人の男の影が和解し、しっかりと握手する。しかし、このシーンこそ、この映画の転換点であり、米映画界の作品の志向性が陰から陽に変わった瞬間ではないか。
そのあとは、ご存知の通りの展開である。無駄なシーンがひとつもない研ぎ澄まされながらも、結構ココロが温まる映画だったんです。
しかし、腑抜け状態から、2-3週間前に脱し、気合いを入れ直し、猛烈な練習を始め、試合に臨むというパターンは、その後、延々と続いた。地球人は、何故そのパターンを好むのであろうか? スティーブン・キングが、ロッキーをみたとしたら、何を思っただろうか?
2019年3月14日 Decoppachi