ミナミハラさん所有のサンタマリア小農園(Sitio Santa Maria)のルビー
ミナミハラさんの独白
ええ、いろんなことがありましたねえ。
NHKドラマの「ハルとナツ」見ましたか? あれがテレビで放映されたときは、みんな声を出して泣きました。私の父や母のような一世の人たちは、昔のことが走馬灯のようによみがえったのです。あのドラマは本当によく出来ていましたね。
1973 年4月28日、私はフランカで目覚めました。とても寒く、乾燥した朝でした。忘れもしません、私の15歳の誕生日にパラナ州のアサイからサンパウロ州のフ ランカへ引っ越したのです。フランカの気候は、慣れ親しんだアサイの気候とは全く違っていました。この日から33年以上にも渡るコーヒーとの関わりが始 まったのです。
そうだ、私の家族、ミナミハラ家についてお話しないといけませんね。
私の父、イサオは1921 年(大正10年)、13歳の時に福島からアラビア丸に乗ってブラジルに渡ってきました。サントス港に着くと、他の移民の人たちとモジアナのコーヒー農園に 連れていかれ、働きはじめました。6人兄弟だった父は一生懸命働き、未開拓の土地を開墾して、北パラナに小さいながらも自分のコーヒー農園を持つようにな りました。
岩手県で生まれ育った母は、1933年(昭和8年)、10歳の時にサントス丸でやってきました。母と一緒に来た移民団はフランカにあるブエノポリスという大きなコーヒー農園へ連れて行かれました。この農園はあまりにも大きく、自前の駅まで持っていたそうですよ。
そして、運命が父と母を引き合わせ、二人は北パラナで新しい生活を始めました。コーヒー農家っていうのは、コーヒーの木に襲いかかる霜との戦いです。困難と苦難の連続です。こんな生活はいつまでも続けていられないと考えるのは当然ですね。
1972年。今思い返せば、運命の分かれ道となった年でした。
パ ラナ州のコーヒー生産者グループが、新種の病気(さび病)に冒された農園を視察するためにフランカへ行きました。その視察団の一員として参加した父は、こ の土地のコーヒーの強い生長力に驚いたそうです。パラナ州ほど肥沃でない土地なのに。その土地特有の気候と標高がコーヒーに最適なのだろうと思ったので す。さらにそこは、全面的に近代化が進み、土壌改良が加えられ、パラナ州よりはるかに高い収穫量を誇っていたのです。
父が53 歳となった1973年、パラナでの生活をすべて棄て、モジアナ高地のフランカに移り住んだのです。こーいうの何といいますか?ああ、背水の陣というのでし たっけ。新しい生活はソル・ナセンテ(ライジング・サン、朝日)という22ヘクタールの小さな農園からスタートしました。そこにムンドノーボ、レッドとイ エローのカツアイ、合わせて22,000本を植えました。
ようやく、話の始まりに戻ってきましたね。
1973 年4月28日、フランカでの初日の朝は寒かったです。それから毎日朝早く起きて、妹のサトミと一緒にバス通学が始まりました。午後は宿題を終わらせてか ら、コーヒー農園で親の手伝いをすることが日課でした。ところが、ある日、母が農園での仕事中に倒れてしまったのです。それまで、家族だけで切り盛りして いた農園だったので、人手が足りなくなりました。外部から人手を雇わざるを得なくなり、唯一の移動手段だったピックアップトラックを泣く泣く手放しまし た。
しかし、神は私たち家族を見捨てはしませんでした。
運命の1975 年8月。空一面が暗くなり、強い風を伴った嵐がやって来ました。雨は降りませんでしたが、気温が急激に下がり始めたのです。パラナで襲われた霜を思い起こ させました。わが家の農園は3年目を迎えていて、初めての開花の時期にさしかかっていたのです。水は不足し、木にはかなりのストレスが溜まっていて、かな らずしもいい状態ではありませんでした。不安でした。これまでの苦労が水の泡となるのかと。
二日後、パラナ州で大霜が発生したというニュースが飛び込んできました。その霜がパラナ州のコーヒーを全滅させたというものでした。幸運にも、私たちはその被害を免れ、収穫の初年度180袋が採れました。さらに、大霜の影響で価格が高騰し、予想の4倍以上の収入となったのです。今でも鮮明に思い出しますよ。1袋が350ドルを越えたのです。神が救いの手を差しのべてくれた、忘れられない1975年でした。
翌年の1976 年にはトラクターを買うことが出来ました。1978年には30ヘクタールの土地を購入。ここに6万本のコーヒーの木を植え、サンジョアン農園としました。 1984年には48ヘクタールの土地を購入。ムンドノーボ、アカイア、レッドカツアイ、イエローカツアイの合計14万本のコーヒーの木を植えました。これ がオロヴェルデ農園です。
1984 年、私は、サンパウロ大学農学部(ESALQ)を卒業し、南ブラジル生産者組合で働き始めました。ミナスジェライス州のアルトパラナイーバやトリアングロ ミネロ地区やフランカのの組合員に技術提供をするのが私の仕事でした。この頃ですね、下坂さんと知り合ったのは。私の父と同郷の下坂さんには、いろいろと 可愛がっていただきましたよ。間もなく、サンパウロでエンジニアをしていた弟のヨウイチロウが家に戻り、農園経営に加わるようになったのです。こうしてミ ナミハラ家のコーヒー農園は次第に安定してくるようになりました。
それでも、コーヒー栽培は天候に左右され、不安定でないとは言い切れませんでした。そこで、コーヒー専業農家から脱却するために、1990 年に高速道路にサービスステーションをオープンすることにしたのです。サンジョアン農園は、その資金繰りのために売却せざるを得ませんでしたが。でも、正 解でした。このサービスステーションが当たり、現在では3店舗になりました。コーヒー事業とサービスステーション事業、相互が補完し合って、うまく軌道に のっています。
資金に余裕が出来た1999 年、48ヘクタールの牧草地、サンタマリア農園を購入しました。サンジョアン農園を売却してから約10年が経っていました。せっかく購入した農園です。こ こにコーヒーを植える前に、この土地に一番適した品種は何がいいのか?という疑問が涌きました。そこで、いろいろな情報やデータを調べ、さび病に強い品種 のオバタンとカツカイを植えることにしました。さらに他の品種の知識を得るために、2ヘクタールの栽培試験場を作り、22品種に及ぶ様々なタイプの品種を 栽培することにしました。結果として、20万本以上のコーヒーを植えることになってしまったんですけどね。(笑)
2002 年、点滴灌漑設備を導入。2004年、サービスステーションの隣の土地6ヘクタールにイエローブルボンを植えました。2006年の収穫初年度は68袋が採 れました。2007年にはもっと多くの収穫が見込まれます。独自の栽培試験場には、一番生産性の高い品種を調べるために、カンピーニャスの農業試験場から 専門家が定期的に来て、品質のチェックをしてくれるようになりました。
いかがでしたか? 少し長くなりましたけど、これがミナミハラ家のコーヒー農園の歴史です。品名 | ミツヒロ・ミナミハラ ルビー |
生産国 | ブラジル |
地域 | サンパウロ州、クリスタイス・パウリスタ (アルタ・モジアナ) |
生産者 | サンタマリア農園 |
クロップ | 2006/2007 |
規格 | NY2/3 |
欠点規格 | 6 欠点 /300 g |
スクリーン | スクリーン16アップ |
木の品種 | ルビー |
その他 | 標高966-1037メートル、農園面積47ヘクタール(内コーヒー37ヘクタール)、点滴灌漑システム導入 |
精製方法 | ナチュラル |
開花時期 | 9月 -11月 |
収穫時期 | 5月-9月 |
船積時期 | 2007年2月 |
保管方法 | 定温保管 |
ロットナンバー | 2/424/16 |
CLEAN CUP | 9.00 |
SWEETNESS | 8.00 |
AROMA | 8.00 |
HARMONY | 8.00 |
ACIDITY | 8.00 |
BODY | 8.00 |
FLAVOUR | 8.00 |
AFTERTASTE | 8.00 |
BALANCE | 8.00 |
OVERALL | 8.00 |
FINAL SCORE | 81.00 |
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