屏東(ピントン)県にある政府系の精製工場、吾拉魯滋(ウラルジ)に特注したティピカ150キロ。
2009年、台風8号が台湾を襲い、屏東県泰武郷の泰武村は深刻な被害(88水害と呼ばれる)のため、安全な地域への移転を余儀なくされて作られたのが吾拉魯滋(ウラルジ)部落である。吾拉魯滋(ウラルジ)ウォッシングステーションは、原住民保護基金を基に政府援助で建設された。2014年竣工、2016年完成。フルスケールのウェットミルとドライミルは台湾唯一である。阿里山は個々の生産者が小規模なミルを所有しているのみである。
ピントン地区のコーヒーの歴史は、日本の統治時代に遡る。
日本統治時代の台湾各地のコーヒー栽培の状況。
日本統治時代にどのようにコーヒー栽培が始まったかについて、台湾総督府殖産局の桜井芳次郎は、以下のように述べている。総督府中央研究所林業部の調査発表(台湾農事報第260号)によれば次の如し。
「台湾で初めて珈琲の栽培を試みたるは、遠く光緒10年(明治17年、1884年)のことで大稻.にある徳記洋行に関係あった一英国人が、マニラから苗を輸入 し、今の三峡の地に植えたのが抑々の始めである。其の後、文山郡冷水坑や汐止付近でも栽培し、一時相当に生産したのであるが、其の後全く衰退状態に帰して 仕舞った。然るに、領台後明治35年(1902年)になって、故田代安定氏(総督府技師)が、殖産局恒春熱帯植物殖育場(現在の林業試験支所の前身)を創 設する際、前記冷水坑にあったマニラ系統の母樹から、種子を獲て栽培を試み、別に小笠原から爪哇(ジャワ)系統の種子を輸入して、極力増殖を図り、即ち小 規模の栽培は、領台前にもあったが、試験的に相当な面積に栽培したのは、今の恒春林業試験支所の前身である恒春熱帯植物殖育場を以って嚆矢とする訳であ る。幸い同地の気候風土が、珈琲栽培に適し、発生後三年目から結実し、四年生木で半封度(ポンド)、六年生木で一封度(ポンド)の収穫を得た、其の栽培 面積の如きも三町歩余に達した時代もあり、明治38年(1905年)以降は年々収穫があって、41年以後は年に一石位の生産があり、現今尚ほ89斗位の収 穫がある、斯くして生産した豆は40年に東京で開催された勧業博覧会に出品もし、また大正4年(1915年)大正天皇の御即位の御大典の際には、特に国産品と云ふので、恒春産の珈琲の御下命があった、即ち台湾で珈琲の収穫が相当にあったのは、恒春林業試支所が初まりで、それは遠く明治41年以来の事である。」
このように、台湾総督府の技師であった田代安定が、日本統治時代より前に植えられて残っていたマニラ系統の種と、小笠原島から輸入したジャワ系統の種1を 使って、明治35年(1902年)ごろから恒春熱帯植物殖育場で栽培を試み、明治41年(1908年)ごろには収穫が安定し始めたことがわかる。
戦後、専門家がいなくなったコーヒーはそのまま放置された。1996年にスターバックスが台湾に上陸すると、台湾コーヒーを復活させようという機運が高まり、永年放置されていたコーヒー産地から種を採取し、各地に植え始めピントン地区もそのひとつだが、交通の便が悪く、有名な阿里山地区と比べると未開発な場所である。過少評価されてきたピントン地区だが、吾拉魯滋(ウラルジ)部落が歴史を作り上げるかもしれない。
品名 | ピントン ティピカ(屏東 鐵比卡) |
生産国 | 台湾 |
地域 | ピントン県タイウー(屏東県泰武) |
生産者 | ピントンネイティブタイウーコーヒー組合(有限責任屏東縣原住民泰武咖啡生產合作社) |
クロップ | 2019/2020 |
規格 | 公式な規格なし |
欠点規格 | 公式な規格なし |
スクリーン | スクリーン15アップ |
木の品種 | ティピカ |
その他 | 標高800-1100メートル、平均気温16-24.8℃、平均湿度91.26、平均月間雨量302ミリ |
精製方法 | フルウォッシュド |
開花時期 | 2019年3月 |
収穫時期 | 2019年9月-11月 |
船積時期 | 2020年8月 |
保管方法 | 定温倉庫 |
ロットナンバー | なし |