日本統治の1930年代、日本政府は台湾に農業政策の一環としてコーヒー栽培を始めた。かつては昭和天皇献上品でもあった台湾珈琲。今回の品種はスマトラティピカ。プロセシングはケニアスタイルです。
台湾コーヒーは、植民地農業の一環として、大日本帝国領土内で行われていた「国産コーヒー」です。日本が日清・日露・第一次世界大戦で勝利をおさめ、大日本帝国の領土が東アジアへと拡大するなか、日本人主義によるコーヒー栽培が行なわれ始めたのです。
台湾でコーヒーの栽培が始まったのは、1885年頃の清朝の時代でした。イギリス商人によって始められました。その後、清人によって台湾各地でコー ヒー栽培は継続されますが、本格的な栽培が始まるのは、日清戦争後の1895年に締結された馬間条約による台湾割譲後でした。台湾総督府の農業技官であっ た田代安定は、コーヒー栽培は台湾の気候に適しているため、将来は内地輸出用の商品作物にしたいという意気込みを報告書で述べています。
1897 年から台湾総督府中央研究所農学部を中心として、日本人による試験的コーヒー栽培が行なわれ、1912年までに産地の異なるコーヒーノキ(台湾系、小笠原 系、ハワイ系、ブラジル系)が植えられていました。アラビカ種を中心にリベリカ種、カナリエ種、ローリフォーリエ種などの多品種のコーヒーノキが栽培する ことによって、積極的にコーヒー生産の可能性を模索していた時代でした。
1920年代に入ると、コーヒーノキは、試験場から花蓮港豊田 村 や吉野村などの移民開拓村にも移植され栽培され、台湾から日本内地への出荷が有望視されるようになりました。1930年代初期には、内地企業の進出によっ て、台湾コーヒーの大量生産が始められました。住田物産(現エムシーフーズ)が住田農場、木村コーヒー店(現キーコーヒー)が台東農場、嘉義農場を開き、 栽培・収穫・販売まで全て会社が行なう直接経営方式が採られました。住田物産は1934年に初荷として70袋を大阪へ出荷しています。
台湾産コーヒーの有望な将来性を期待されたものの、労働者不足、天災・病害などのコーヒーノキの被害により、積極的にコーヒーを生産する農家がいないという問題に直面。さらに太平洋戦争の勃発によって台湾におけるコーヒー生産は終焉を迎えたのでした。
品名 | 阿里山スマトラティピカ |
生産国 | 台湾 |
地域 | 嘉義県阿里山、鄒築園(Zhou Zhu Yuan) |
生産者 | アヴァイ・タパング(Avayi Tapangu) |
クロップ | 2012/2013 |
規格 | 公式な規格なし |
欠点規格 | 公式な規格なし |
スクリーン | スクリーン19アップ |
木の品種 | スマトラティピカ(第二次大戦前に日本人が持ち込んだコーヒーが野生化したもの。通常のティピカに似た形状だがサイズは大きい。) |
その他 | 標高1,200-1,300メートル、農園面積2ヘクタール、1996年から栽培 |
精製方法 | ケニアスタイル(ダブルウォッシュド) |
開花時期 | 4月-5月 |
収穫時期 | 2013年3月 |
船積時期 | 2013年12月24日空輸 |
保管方法 | 弊社事務所にて保管 |
ロットナンバー | なし |