2019/10/31

(NO.1189) 書店  デコッパチ

気分が落ち込んだときは、とりあえず本屋さんに駆け込むことにしている。ボーっと、本棚をみていると、昼行燈モードにあったエンジンの回転数が上昇し、体温も1度前後上がり、気分のノッチがかわり、頭の中の海流が渦(うず)から黒潮にかわる。ひとは、パンのみで生きられず、なのです。若者よ、人々よ、スマホを置いて、本屋に出でよ、です。

近所の書店、古本屋さんが意外と元気であるのではないか、と思う。アマゾンによる大波が吹き荒れて10年以上が経った。しかし、通勤に使う駅前の本屋さん、古本屋さんはしぶとく頑張っている。もちろん、がんばる、だけではなく、各店ごとになにか秘密があるのかもしれない。または、個人間取引の配送疲れでしょうか。

近くの書店は、一階が5列ほどだが、わたしは、毎回、いちばん右端の国内外文学や政治などの単行本コーナー、店でいちばん空いている列にまずは吸い込まれる。そして、店主が揃えた数百冊の題名や内容に驚く。世の一部の人は、いまはこのようなことを考え、訴えようとしているのか⁉︎   次に、奥の新書コーナーにふらふらと、惑星の引力に吸い込まれていく。新書ならではのありとあらゆる分野からの訴求力、買いなさいオーラと毎回戦うこととなる。各題名はエネルギッシュで挑戦的で雑誌的である。カフェのメニューの姿勢とやや対極的である。

新書コーナーからの誘惑を振り切り、その離脱エネルギーをもって、文庫コーナーや、海外文学の文庫コーナーをひやかし、やっとのことで、出口に向かっていく。そのときに、余力があれば、雑誌コーナーにも寄る。

古本屋さんは、一見、緊張感が柔らかい。軒先きには、新書、雑誌が、店の呼び込み役のように、並んでいる。しかし、うっかり、覚悟なしに自動ドアの境界線を越えてはいけない。そこには結界があるのだ。その先は、店の主人のレーダーに強く捕捉される領域。一線を越えてしまったことに気がついたときは、もう遅いのである。

しかし、数十年前の印刷物に会える魅力には勝てない。ただし、広くはないスペースに、9つくらいのジャンルがあり、一挙手一投足が、マスターに、みられているような気がする。気にし過ぎであろうか。二、三回に一回は、買っているのだから、もう少し柔らかいオーラを出してくれてもよいのではないかなぁと思う。こちらから「なにか面白い本、はいりました?」と聞くほど足しげく通っているわけでもないことは反省はしております。しかしながら、結局、数回に一回は、店主のマジックに、からめとられてしまうのである。

となりの駅の書店は、なんとなく好きだ。ホームページには、「良書がゆっくりえらべる町の本屋として日々様々なジャンルの書籍を並べています」とある。実際、さりげなく、読むべき本が、しずしずとした重量感を持って、並んでいるのである。活気もそこそこあるし、しばしば、本のほうから、うったえてくるのである。何冊かの本は、確実に、題名が浮き上がり、こちらにとんでくる。閉店後に、本たちを訓練しているとしか思えない。

こんなわたしが、JRの駅ピルにある本屋に行くと大変である。その圧倒的な物量、スペースに、毎回驚くことが儀式になっている。しかし、比較的大きな駅ビルに、小さくないスペースの本屋さんが存在し続けるかぎり、この世の中は、持続性を保っていけるのではないかと思う。ひとは、テレビ、インターネット以外の情報の価値を少しずつ見直してきているのではないかと思う。アナログ的に、自分の足で、ふらふらと、本棚をみて、ちまちまと、おもしろそうな本を探すことは、現在のわたしの小確幸(ささやかながらも確かな幸せ)である。大幻幸も必要ではありますが。

2019年10月30日 デコッパチ