2019/06/27

(NO.1169) 【コロコロほろ酔い日記 2】旅をめぐって 小山伸二

ちかごろ、日本国内を旅する機会が増えている。 

東北、四国、九州、関西と、旅している。 

移動と言わず、旅行と言わずに、旅だ。それは宿泊施設と言わずに宿と言ったり、演劇と言わずに芝居と言うのに似て いる。 

音読みより訓読み、漢語より大和言葉が好き、ということか。

ぼくたちは、どこにいても、このちっぽけな「自分」という器の外にでることはできない。 いろんなしがらみや、身過ぎ世過ぎのなか、どんどん小さくなっていく「自分」を取り戻すためにも、いまここから逸 れていく、外れていく、そんな旅が必要だ。

旅のいいところは(仮にそれが仕事で出張だとしても)、いつもとは違う時間が流れていることだ。 朝ごはんを食べるところから、昼飯、夕飯、夜のお散歩から帰って寝るまで、いつもの時間とは違う流れのなかに身を 置いている。そんな感じが好きだ。

旅にともなう「移動」という時間と空間がいい。

ぼんやり車窓を眺めるのも、昼酒とともにゆられることも。

そして、旅に欠かせないのが本というお伴だ。 旅の空の下、ついつい欲張って読みもしないのに何冊もカバンのなかに忍ばせておく。 揺れる車中での読書は、不思議と集中できて、すっとその世界に入っていける。 持っていく本は、だいたい仕事がらみの食関係の本もあれば、しちめんどくさい思想書、哲学書、あるいは娯楽的な小 説、エッセイの類、そして欠かせないのが詩集だ。

ひとは言葉を読むときに、普通は意味を追う。 理路整然としているとはかぎらないものの、文章には意味内容がきちんとある、というのが普通のありようだが、詩に は必ずしも自明の意味内容があるとは限らない。 わからなさの程度にはいろいろあるが、詩は、ときとして日本語であっても意味不明な文章の宝庫だったりする。 そんな詩のどこに惹かれるかというと、まさに、そのわからなさ、意味不明だけども、どこかひっかかる、なにか気に なる、はっと虚をつかれる、そんな言葉の迷路や荒野の景色にぼーっとしてしまう。

そこが詩のいいところ。

意味だらけの言葉につまづいたときに、意味がよくわからないけど気になるフレーズが散りばめられている詩にひとは 救われることがある。詩は、言葉は通じないけど気持ちが通じあう犬や猫のように、そっと寄り添ってくれる。

旅の話だった。

いろいろとヘマをしでかしたり、ズルしたりして生きている、ちっちゃく、かたくなった心に、すこしだけ自由な風を 吹かすことができる。 知らない町の知らない路地で、いつでも、心は自由になるはず。想像する力を取り戻すことができるはず。 そんなことを、旅の空の下、フーテンの寅さんじゃないが、ふっと思ったりする。

というわけで、今日も、こんなフレーズをそっと口ずさみながら、ぼくの旅はつづいている。

 

旅人は待てよ

このかすかな泉に

舌を濡らす前に

考へよ人生の旅人

汝もまた岩間からしみ出た

水霊にすぎない

この考へる水も永劫には流れない

永劫の或時にひからびる

ああかけすが鳴いてやかましい

時々この水の中から

花をかざした幻影の人が出る

永遠の生命を求めるは夢

流れ去る生命のせせらぎに

思ひを捨て遂に

永劫の断崖より落ちて

消え失せんと望むはうつつ

さう言ふはこの幻影の河童

村や町へ水から出て遊びに来る

浮雲の影に水草ののびる頃

           (西脇順三郎『旅人かへらず』より)

 

実はどこにも出かけなくても、コーヒーでもお酒でもかたわらに置いて、一冊の詩集を開いたら、もう旅に出かけてい る、とも言えるかもしれない。

 

2019年6月27日   小山伸二