夏にピリオド
ピリオドとは?
改めて、意味をみると、gooでは以下の通り。
1 欧文・ローマ字文などで、文の終わりに打つ「.」の印。終止符。
2 期間。時代。
3 スポーツの試合での一区切りの時間。
4 生物の体内でサーカディアンリズムを制御する時計遺伝子。
わたしの頭の中では、生活上のよい句読点、コーヒーを飲むとき、そして、飲めたとき、と定義してきた。最近は、とくに、1日のうちに何回もピリオドを打ちながら、日々をすごしている。句読点がないと、その先にいけないし、移行できない、進めない。あるいは、ピリオドにおいて、クジラやイルカのように息継ぎをし、ピリオドのあいだ、あいだのための酸素を蓄えるようなものだ。
喫茶店、カフェは、その町々の、ピリオドの総本山ということになろう。そこで、ひとは、タバコを吸ったり、勉強したり、ほっこりしたり、競馬新聞を読んだり、一般紙を読んだり、おしゃべりしたり、ボーっとしたり、沈思黙考したりしている。ミニオフィスにして延々と仕事電話をしているひともみられる。けっこう、nakedなのである。
宗派もいろいろあり、マスターが携帯を禁止し、堅牢にその店の世界観を守るところや、ジャズラジオを比較的大きな音量でひたすら流し続けているところもある。巨大スピーカーを置き、レコードを聴かせるところもたまにある。チェーン店で、音楽には全く完璧に無頓着なところなどは、やや無法地帯気味であり、ひとは、勉強、仕事雑談、スマホとのにらめっこをしている。一方では、音楽にこだわり、CDを販売したりするところもある。コーヒー、ホスピタリティの原点を求めて、稀にいく帝国ホテルの一階みたいなところは、ゴージャスだが、さりげない緊張感に包まれており、ちょっとした仕草で注文がとれるように、常に挙動をみられているような気もする。わたしのような落ち着きのないものは、テイコク気圧に慣れるまでやや時間がかかる。
カフェは、小さなオアシスでもある。とくに、今年のような酷暑においては、体調の回復に必要な重要な場所になっていたのではないだろうか? カフェのマスター、従業員さんは、司祭、司式者、牧師、医療従事者ともいえよう。
しかし、先日、日曜日はあまりの暑さに、かき氷に走ってしまった。昔の記憶を頼りに、葛切りで涼をとろうと、老舗和菓子屋さんに入ったのだが、なんと、葛切りがなくなっている。メニューには、抹茶やお団子のほかに、カキ氷がドーンとでている。
今年の酷暑や諸処出来事にピリオドを打つべく、宇治金時を下さい!と、勢いこんで、お姉さんに言うと、「当店のカキ氷は、相当に大きいため、ひとつ小さめのものがおすすめです」とのこと。猛暑で知られる群馬県・館林市の巨大カキ氷に対抗しているのか? 僕のきき間違いなのか?と思いつつ、小さい方を頼んだ。
その後、出てきたのは、館林市級のマッス(質量)をほこるものであった。館林市と違うのは、練乳や小豆や宇治、小餅が、それぞれの器に入れてあり、自分でかけられるところ。あまりの大胆さと、こまやかさにノックアウトされた。
夏に引導をわたすべく、懸命に戦ったが、全部たべられず。夏を完全にうっちゃろうと思ったが、完食できず。お彼岸までは夏の残滓とのお付き合いがつづきそうだ。
ところで、甘味屋さんは、セカンドウェイブ、サードウェイブなどを超越した、純粋な喫茶の伝統、目的、雰囲気をいまだにキープしているのではないか。酷暑をやり過ごすだけでなく、ピリオドを穿つほどの、エンシァントパワーが呪詛的に深く根を張って残っているような気がする。気のせいだろうけど。
2018年9月18日 Decopachi