2018/05/15

(NO.1103) 只管打坐  Decoppachi

なんにもしない。ただ、ボーっとするだけ。

最近、最高の贅沢はこれなのではないか、と思えてきたし、思うようになってしまった。

約束や、心配事、もろもろのこと、もろもろのことの行間さえも、とりあえず置いといて、ただボーっとする。

できたら、もろもろの雑念をとりあえず置いておくだけでなく、まったき完璧の彼方に投げ飛ばすことができれば良いのだけど、なかなかそうもいかない。できるのは、禅僧の達人ぐらいではないか。

梵人のわたしが、そういう境地らしきものになれるのは、山の往路で相当苦しいときにひとつの限界点に近いところで無心に登っているとき、甲斐駒ヶ岳の摩利支天のような威圧感あふれる山容に恐れおののき圧倒されるとき、仙丈ヶ岳のようなカール型のやさしい容貌の山にみとれるとき、ランニングで1時間くらい経ったころのランニングハイ、スカッシュでコテンパンに打ち負けたとき、などなど。とにかく、空白になることを求めて、いろいろと画策している。

ただ、意外とそれに近いものがふいにあらわれることもある。それは、半年ほど前、健康診断のとき。健診着に着替える前、受け付け後のときであった。それは、絶妙な均衡を伴った突然の空白の時間であった。当面やることはないし、仕事パソコンも、仕事電話も、同僚もいない。とにかくなんにもやらなくていい。ここ最近ないくらいの、ぽんと出てきたボワーっとした空白であった。わたしは、そんなに病んでいたのだろうか。

当面は、土曜日の朝、起きてからの、コーヒーが至福のときである。お湯をわかし、紙ドリップにお湯を注ぐ。ゆっくりと。とにかくゆっくりと。コピルアックの儀式も忘れずに。

ベトナム戦争を経験した作家ティム・オブライエンは、戦争や徴兵直前のいくつかのエピソードを何冊かに書くことによって、結果的に精神が崩壊することが回避できたと書いている。彼の一部の戦友には、帰国後、精神をうまくコントロールできずに自死する者もいた。

先日、刑務所から、脱走したひとがいたが、私たちも、程度の差はあるものの、自ら牢をまわりにめぐらし、いろいろなものに束縛されているような気がする。

いま、はじめて来たカフェの屋外のテラスでボーっとコーヒーを飲んでいる。連休のなかだし、風も吹いてるし、まだ3日ほど休みがあるし、結構美味しいコーヒーが出てきたし、もうなにも言うことはない。

しかし、この文章を思わず、書いてしまった。もったいないといえば、もったいないのだけど、こんな適度に偉大な暇な時しか書けないこともある程度事実なのだから仕方がない。携帯は家に置いてくるべきであった。

 

山、ラン、コーヒー、フリーダム。

 

2018515 Decoppachi