2012/05/10

(NO.501) 校閲のバイト - 津々井 敬

以前このコラムで書いたが、大学には必要最小限しか通わなかった。単位取得に厳しい語学講座、体育会の練習や試合に参加する程度。あり余った時間を何に費やしていたかというと、読書、映画鑑賞が大部分を占め、後は生活のためバイトに精を出していた。

居酒屋のホール係から始まり、百貨店の配送センターでの事務、新聞社から依頼されたアンケート調査目的の会社訪問。家庭教師や塾の講師のオファーもあったが、夏休みに帰省した折に少し教えた程度で、あまり気乗りしなかった。他人から教わることが嫌いな人間には教える術もないし、そんな人間から教わる方も悲劇である。それは露骨に態度に表れるし、それ以上に受験勉強を教えることに何の価値も見出してはいなかった。

最も長続きしたバイトは、某新聞社での「校閲」の仕事だった。体育会で代々に引き継がれてきたバイトで、話をもらった当初は、他のバイト同様、何の感慨も期待もなかったが、実際にやってみると、これが結構自分の性分に合っていた。「校正」とどう違うの?「校閲」の言葉の存在すら知らなかった。記者の書いた生原稿(今やこれは存在していないだろう、たぶん)は、活字拾いが鉛活字を組んで校正刷り(ゲラ)される(こんな作業もなくなっているだろう、たぶん)。校正は、その元原稿とゲラを突き合わせて間違いを直すこと。一方校閲は、字句の誤りを直す校正は当然のこと、文章のつながりや書かれている事実関係を調べ、それを正すことである。

忙しい記者たちの書き飛ばした原稿には、思いのほか間違いが多い。時系列があやふやだったり、人名、地名の間違いも多々あった。論説委員の文章にすらその類いがあったほどだ。バイトを始めた当初は、字直しすらまともにできなかったが、慣れていくに従って赤ペンを持ちゲラに臨んだとき、間違った字句や送り仮名、当用漢字にはない活字が、「直してくれよ」と叫んでいるのが分かるようになる。それらの文字が浮き出るように目に映るのだ。

校正はともかく、校閲を完璧に行うには、文字や国語の知識だけでは足りない。新聞の校閲の場合、社会の一般常識、時事的感覚、国際情勢など多様な知識が必要になる。無論、バイトの人間にこれらすべてを求めることはなかったが(上席が再チェックする)、校正を終え興味を持ち始めた私は、より深く校閲の仕事を追究したくなった。分かりやすい文章を読者に提供することが新聞の使命だと考えていたので、記者が書いた「悪文」を勝手に手直したりした。当の本人は気色ばんでクレームを提起してきたが、青い私はこれに反論、論争になった。「校正係は字だけ直してりゃいいんだ」、「こんな文章で真意が伝わるか」云々……。逆に記者から感謝されることも少なからずあった。

この新聞社での校閲の仕事ぶりが認められ、出版社や某政党機関紙からもバイトの依頼が舞い込むようになった。新聞社での勤務時間は、週5日で午後6時から夜半過ぎ、出版社は週2日の昼間、政党機関紙では、週1日の昼間。もう学校に行っている「暇」など完全になくなっていた。バイト料も他の仕事よりもよく、学費(通っていないのに)や生活費も十分賄え、貯金までできた(それも酒と趣味に消えてしまったが)。社会人になった初年度の住民税の支払いができなかったほどだ。

校閲でメシを食っていくことも一時考えたが、所詮クリエイティブな仕事ではないと思い知りやめた。某新聞社から記者にならないかとの誘いもあったが、それも断った。その辺の事情は、別の機会に披露したいと思う。でも、結果的に選んだ仕事が、クリエイティブなものなのかと問われれば、それは極めて疑問である。

平成24年5月10日   津々井 敬